
twitterで先述の世間の『アバター』評を
作品内容面として作品の技術や機能面として参照の上、
以下に個人的な『アバター』観。
2010年初頭現在、基本的に日増しに賞賛の上がるヒット作品。
今のご時勢では気になる興行成績も映画興行史に残る成績となった様子。
しかし、本作品で重要なことの多くは、世間一般の映画を観ることの自覚が
意識的に変化したことを印象付ける作品になった部分にある。
3Dメガネというレトロなデバイスまでつけて、関東に2館しかない
上映方式の映画館に押し寄せている。
みんな、今まで映画に対してそこまでのことを求めていたのだろうか。
つまり、本作品での3D表現の良し悪しというよりも、
一般から視覚体験の良し悪しを問われる常識にまで押し上げた
エンターテイメントとして、ここ数年の中で革新そのものではある。
この急速に変化した世間の知覚認識への常識に対して、
映像業界からは非難する批判の声も少なくなく、逆に作品内容が
軽薄である点を指摘する声も多い。
3D表現、映写方式のこだわりであることの良し悪しは重要な
作品の重要なプレゼンテーションであったものの、
IMAX3Dを頂点とした国内での様々な映写方式の違いが軽視されているため、
作品の個人評に映写方式の違いが多大に影響している混乱が生じている。
映像業界からは非難する批判の声という、テクニカルな問題など、その辺は
本作では収束するには時期早々と思うのだ。
しかし、「リュミエール兄弟以来の衝撃」などというフレーズを見かけると、
さすがに浮かれている感は否めないのだけれど、
それも健全な興奮と思うことにする。
IMAX3Dによる映画のブルジョワ意識というか映像への
欲求意識の高まりは、昨年末の『This is it』が世論との絡み合いで
作品以上の時価を発生させ、その影響により
その基本的な映像音響の評判の高まり、鑑賞における
今回の3D上映に対しての集客における経緯へとつながっていると思われる。
アメリカではIMAX3Dが日本よりも一般的だ。
今後、アメリカでは3D映画が一般的となるようだ。
そうなれば、概念として、今後はハリウッドの3Dと
日本の2Dでアニメーション表現の相違がより顕著になってくる。
今ある状況から考えて、必然な未来ではあるが。
自身では初回に、映写方式では悪評のXpanD(新宿バルト9)、後日に
検証のためIMAX3D(109シネマズ川崎)にて鑑賞。
意外にも思い返した時、IMAX3Dの3D映像よりも、年の瀬に観た初回の
バルト9の方が印象強いのだ。映画がつくづく理論ではないものだと思う。
ネックとも言える3Dメガネに関しても、銃身の重みにある種の快感を覚える
ミリタリーマニアのように、SFバカとしてXpanDメガネの重みすら
雰囲気を向上させるものとして楽しんでいたため、
主観ではメガネのストレスを感じられなかった。
余談だが、現状の3Dは実写的な部分よりも、ディズニーなど
デコラティブなCGアニメに対してこそ効果的になれるのでは。
また環境もレアで、初回のバルト9のシアター6(上階の大規模シアター)の
F-20という、年間でも稀に見る良席であることが大きかった。
(IMAX3Dでは少し前方だが、少し端の方であることが意外と影響した。)
それも年の瀬の上映だからこそ確保し易い条件ではあった。
当然周囲に人も少なく、席も使い放題。
また近くにユーロ系やらアジア系客のアメリカンなリアクション
という合の手が素晴らしく、劇中でも都度「Woh!」とか「Nice!」だとか
小五月蝿く、偶然にもエンターテイメント作品鑑賞の正しい環境に恵まれたのだ。
では、映像及び作品内容について考えると、例えば
劇中の生物であるナヴィの造形について、
ナヴィに関して言うと、最初はもっとエイリアンっぽいルックスだったんだ。だが、これはラブストーリーなので、試行錯誤をするうちに、
どんどん人間っぽいルックスに変わっていった。
とジェームズ・キャメロン監督は語っている。
ここにキャメロンのハリウッドムービーらしい配慮が現れている。
作品の主軸に対する要素の主従関係は重要だが、よく言えば、今回は
作品の後の時代を見据えた上で、表現の主従関係として類型的な内容になっている。
『アバター』は別作品のフルCGアニメーションとしては先行されたが、
3D上映としての形式で実写SFの劇場映画としては、本作品がエポックメイキングの
1つのポイントである旗を立てられていることは間違いない。
なぜなら、世界中のシネコンでハリウッド型のバジェットによる
実写ベースのSF大作を3D上映した映画作品は今までにないからだ。
上映体験自体に一般的な映像とは異なるものを導入した時点で、逆に現時点で
作品内容に革新的な刺激を取り入れては、作品として過剰になってしまう。
シネコン向けのハリウッドムービーのバジェット感覚では、映画は
好きな表現を最高のテクニックや優れたシナリオで作ることが映画の技術ではない。
ここでいう優れたシナリオは、最高のテクニックの総意を求めるよりも難しい。
現実の自分たちがこの面妖なデバイスをつけて鑑賞している事、
その劇中で下半身不随になった主人公ジェイクはアバターを手に入れて
(本体を超えた運動神経の下半身の自由による)新たな生の快感が、
ゆくゆくは意識の改革にまでつながる。
デバイスと自分の視覚の存在を意識させる導入、そして
映像の中での仮想現実とは言い難い連結された意識によるアバター操作の世界観。
それらを順々に展開する3時間は、これらを映像を今後様々な作品で
デフォルトとして展開することを前提にした、
3時間のチュートリアルムービーである。
作品の冒頭で、主人公ジェイクの視点でアバターの意識に
連結された瞬間が描かれている。
この瞬間が作品全編に持続する表現として、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』や
『クローバーフィールド/HAKAISHA』のような一人の視点の主観映像による
ドキュメントタッチがあの3D映像で表現されていたら、クリエイションとして
渋くも実際の作品とは別の意味で刺激的になっていたような気もする。
しかし、それは映画というよりメディアアートの部類である。
類型的とはいうものの、キャメロン映画の類型としてシンボリックな
内容に溢れている要素もあからさまな作品だ。
キャメロン映画のシンボルとでも言うべき強い女、ナヴィのネイティリ、
グレイスは象徴的。『T2』のサラ・コナー要素そのもの。
トゥルーディは『エイリアン2』におけるバスケス。
特に、パーカー・セルフリッジはカーター・J・バークそのもの。
人間側の設定やSFメカニックは『エイリアン2』を彷彿させる点が多い。
というか、グレイスはシガニー・ウィーバーだ。
(キャメロンとしてはそれほど意図的なキャスティングではなかったらしいが)
さらなる蘊蓄として、
海兵隊の大佐役、スティーヴン・ラングは、キャメロンの『エイリアン2』で
オーディションに失敗し、起用されなかった。だが、
監督はラングを覚えていて、このたび『アバター』に起用した。
という映画バカ的に感動のエピソードもある。スティーヴン・ラングは
20年以上もあのマッチョな肉体を維持していたのだろうか。
確かに彼のボス軍人キャラクターとしての振る舞いは、
見慣れたハリウッド映画そのものとして笑ってしまうほど正しい行いだ。
後世で語る場合、スピルバーグの『ジュラシックパーク』のように
ファミリーエンターテイメントやジャンルムービーとしての姿しか
残していない可能性は高い。
だからこそ、この今という時間に作品の本来の寿命である劇場での上映で
作品の機能的なテーマである3Dで見る必要があり、それ以降に見る必要はない。
ただし、先述のように世界設定がかなり自分好みの
80年代〜90年代SF感覚を統合したリメイクとも言える作品、
個人的なSF資料として価値は残るものとして
後々、思い出したように見ることもあるかもしれない。